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INTERVIEWS WITH INVESTORS

(2015/11 取材)

投資家インタビュー Vol.8前編 スクラムベンチャーズ宮田拓弥氏 投資家インタビュー Vol.8前編 スクラムベンチャーズ宮田拓弥氏

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《 INTRODUCTION 》

サンフランシスコで活躍する数少ない日本人ベンチャーキャピタリストの宮田拓弥氏(Tak)を、サンフランシスコから迎えてのインタビュー。大きな身振り手振りで身体を動かして明るく屈託のない笑顔でお話される姿に、お会いするといつもエンカレッジされます。サンフランシスコにいるからこそ分かる現地の最新事情とともに、日本の居心地の良さや起業家にとっての活動の良し悪しなどについてお聞かせいただければと思います。

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アメリカで就職、起業。シリコンバレーのスピード感を経験

投資家インタビュー Vol.8 スクラムベンチャーズ宮田拓弥氏 アメリカで就職、起業。シリコンバレーのスピード感を経験

長南 宮田さんがアメリカで日本人としてScrum Venturesを運営されるまでに至った、今までの人生について教えていただけますでしょうか。

宮田 VCを始める前は、日本で個人としてエンジェル投資をしていました。で、VCを始めようと考えた時に、東京でやるという選択肢が僕の中にはなくて。それ以前のキャリアとしては、「一つの事業にフォーカスする起業家」と「様々なクライアントと色々なプロジェクトを進めるコンサルタント」を経験したのですが、両方の面白さと辛さを味わって、プロフェッショナルサービスとしてのVCをやるなら何をしたいかと考えた時に、「大リーグに行きたい」というのがシンプルに思ったことでした。僕がネットサービス系に興味を持つ理由は、大げさに言うと人類の進化の過程だからなんですね。元々大学院の研究室で半導体の研究をしていて、親父が研究者ということもあってサイエンティストになりたいと思っていたんですけど、それは挫折したんです。半導体をやっていた理由は「半導体すげぇ」っていう走りの時代だったからなんですけど、その工業化時代から情報産業化時代になる時のドライバーがまさにシリコンバレーだったわけです。

長南 その頃、シリコンバレーは僕ら世代からすると遠い存在でしたよね。

宮田 そう。その時はシリコンバレーは全然イメージになくて、半導体がすごいと思って研究をしていたら、情報産業、ソフトの世界に急にぼこぼこと会社ができてきて。コンピューターを動かす仕組みにロマンがあると思っていたんだけど、実はその上のサービスやソフトウェアというところにイノベーションが来ていると感じ、色々できるサービスやソフトウェアの分野に行かなきゃいけないと思ってソフトエンジニアに就職をしました。で、研究者というのは人類の未来とか世の中で分かっていないことを見つけることにロマンがあって、僕のキャリアはその延長線上にあるので、僕としてはモノがたくさん売れることよりも、世の中にないものを発見したいという思いが強い。だからそういう企業が多く生まれているシリコンバレーに行って投資をしたい、と考えたんです。

長南 アメリカに本格的に移ったのはいつ頃ですか。

宮田 就職した時も会社を作った時もアメリカでしたが、ずっと日本とアメリカを行き来していて、完全に移住したのは2010年です。

長南 アメリカに行く、大きなきっかけはあったんですか。

宮田 そうですね。大学院の後は就職先で半導体の研究をする予定だったのですが、ちょうどその時に半導体からソフトの分野に移ろうと考えて、当時はインターネットやITの会社は日本にはほとんどなかったので、自ずとアメリカしか選択肢がないと僕は思ったんです。

長南 学生時代から海外で仕事をしようという志向だったんですか。

宮田 父が結構海外で仕事をしていたので、頭の片隅にあったんですよね。でも僕、24歳の時、英語が一言もしゃべれなかったんですよ(笑)

長南 それでも単身でアメリカに飛び込んだんですよね。

宮田 そうですね。一番最初に入った会社はテキサスが本社、その後会社を作ったのはロサンゼルス、ファンドを作ったのがサンフランシスコ。シリコンバレーにだんだん近づいていきました。

長南 なぜロサンゼルスで会社を作ったんですか。

宮田 ロサンゼルスだったのはたまたまです。自分の会社を作る前に、先輩が作ったコンサルタント会社の創業メンバーになったんです。その会社はもう残っていないんですけど、当時は1999年で、皆まだインターネットやホームページがなかったので、ホームページ制作とかの仕事をしていて。その時はもう英語は話せていたので、アメリカの会社が日本に進出する時の戦略の受託、コンサルタントをしていました。

長南 英語を話せない状態でアメリカの会社に入ったんですか。

宮田 入りましたね。無謀ですけどね。よく考えると意味不明ですよね。半導体からソフトに行かなきゃいけない、でもソフトの世界は全部アメリカだからアメリカの会社に入らなきゃ有り得ないって思って入っちゃったけど、実は英語が話せなかった、みたいな(笑)

長南 そこでやっぱり日本が良いと、日本に戻ってくるっていう選択肢はなかったんですね。

宮田 そうですね。当時、日経ビジネスで情報産業、ITの特集が急に増え始めたんですよ。たぶんITという言葉が日経ビジネスに出まくったのが95年くらいからで、そこで急にこれからはITなんじゃないの、ITは全てシリコンバレーから生まれてんじゃないの、って。

長南 そこからもう完全にアメリカにシフトしてしまった、と。

宮田 その後ロスで会社を作り、その会社はすごくラッキーなことに2005年に買収してもらってEXITして。30歳くらいの時ですかね。そこでアメリカ、シリコンバレー、EXITのスピード感を経験して、これだよ、と。研究者がばーんと会社を作って、そこに投資をして、大きな会社が来て買う、みたいな。それを日本でやりたいと思って作ったのがジェイマジックなんですよ。社名にジェイを付けたのは、日本でもそういうスタートアップのエコシステムを作りたいというのがあったんですよね。ただ、その時に色々なものが足りなかったと思います。一人で始めた会社でしたが、今考えるとやりたかったことと会社の事業は少しずれていた気はしますね。

投資家インタビュー Vol.8 スクラムベンチャーズ宮田拓弥氏

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