(2015/11 取材)
長南 東京のITバブルが崩壊していく時は、どのようにマーケットを見られていましたか。
中垣 ITバブルが弾けたのは2000年3月頃かと思うのですが、実際には、その後1年くらい経ってからしんどくなっていったように覚えています。未上場の投資環境としては、ITバブルが弾けてから影響が出るまでに時差があった記憶があります。2000年にあるゲームの会社に投資していて、2001年以降トラフィックは伸びていくんですけど、広告収入が全然上がらなくなっていきました。追加投資を出す勇気が当時の僕にはなくて、どこまで行ったら黒字化できるのか、イメージが全然湧かなくなってきました。で、経営陣とどうしようかなと。サービスは良かったのでスポンサーは付くだろうし、トラフィックを欲しい会社もいくらでもあるからっていうことで何社か打診をして、最終的には楽天さんが買収するという形になりました。
長南 M&Aを考え始めた時はVC側の中垣さんから言ったのか、それとも経営陣から「もうだめそうです」と言われたのか、どういう感じでしたか。
中垣 当時はサーバー代も高いし、トラフィックが急増してコストが上がり続けるのに、一方で広告収入は減っていくので、収益性はどんどん悪化していきました。これ怖いなぁ、と思って(笑)僕らも他の投資家が出すなら出せるかもしれないということで、他のVCにももちろん声をかけたんですね。1回目は僕らだけが出して、その後伸びて「おっ」と複数社が思っても、実際の損益を見ると皆さん中々腰が引けて。その中で話し合って、VCからの調達と共に興味を持ちそうな事業会社をいくつか当たろう、と。
長南 経営陣としては、今の状況ではもう無理だろうと納得してくれましたか。
中垣 やむを得ないかな、という感じでした。マイナーでのスポンサーの可能性もありましたが、最終的には丸ごとだろうということで買収してもらうことを選びました。
長南 そういった投資回収フェーズの最後に揉める可能性もあると思うのですが、その場になってから言うとか、投資の段階になって言うとか、EXITの段階の交渉はどのような感じですか。
中垣 このゲームの会社は、ある会社から当時小さかった部門を抜き出して作った会社で、経営陣もシリコンバレーについて詳しい方々で、いざとなったらM&Aも構わないし、その方が単独で行くよりも良いかもしれないって元々発想としては持たれていたので、比較的スムーズでしたね。
長南 元の会社は生き残っていますか。
中垣 はい。経営陣もそこでこつこつと良い会社を作られています。分離して上場して資金を集めていきましょうという感じだったので、投資前に握れていたという意味ではやりやすかったです。本当に短いケースで、1年間でした。タイミング的にも非常に激動の時期だったので、それで一定のリターンも出せたのは運も味方したという気はします。
長南 そこからしばらく復活しなかったですよね、ベンチャーマーケットって。
中垣 しなかったですね。投資テーマも難しい時期で、社内でもものすごく反対をされながら追加投資をなんとか引っ張って、みたいなことをやっていましたね。そういう感じでこつこつと、年間2〜3件の投資案件をやっていました。
長南 ガンガン行くのではなくて、見定めていた、と。
中垣 当時はそうでしたね。
長南 投資先の業界としては、リーマンショックの前はどの辺りが多かったのでしょうか。
中垣 何でもやっていました。東京に帰ってきてからはインターネットの会社がほとんどです。どちらかと言えばBtoBの会社が好きで、数も昔から多かったです。BtoBの方が投資先の人と一緒に営業に行けるので、そこで会社の良いところ・悪いところが見えてくる。「面白い会社があります」って随分営業しました。
長南 インターネットど真ん中ではなく、周辺が多かったんですね。投資スタイルについては、リーマンショックの前後で何か変化はありましたか。
中垣 リーマンショックって2008年ですよね。2007年は新規では1件も投資しませんでした。市場のEXIT環境がものすごく悪いのに国内にファンドがそこそこあって、未上場の株価が上がったままだったんです。それで積極的に投資する気になれなくて、加えて当時のJAICの役員からアメリカに呼ばれて、日本で2本のファンドの責任者とチームを持ちながら、アメリカと日本を行ったり来たりしていました。それを言い訳に運用が疎かになってしまっていたのかもしれないのですが(笑)条件が合わないのに無理してやるよりは、そもそもやらない方がいいかと思いまして。思えばチームのメンバーたちはかわいそうでした。
長南 ファンドを集めたら、LPへの説明責任というか期待というか、投資完了期間の5年とかで全額投資するという目標ができて、取り敢えず投資せざるを得ないことになってしまうと思うのですが、そこのジレンマはどのような感じでしたか。
中垣 もちろん投資期間は意識しなくてはなりませんでしたが、社内のプレッシャーは無視していました。ファンドをチームで持っているという、当時の社内では不思議な形だったんですけど、ファンドを持っていないチームから組み入れてほしいと要請が届きます。それを資料を見ては断り続けていましたね、バリエーションに問題があるとかリスクが高すぎるとか言って。権限は投資委員会が持っているはずだったんですけど(笑)実際は僕の時点でかなり弾かせてもらっていました。会社として投資するなら他のファンドでどうぞ、みたいな、サラリーマンなのに変なことをやっていて。
長南 サムライですね。自分の意思は曲げない(笑)それは、投資額に応じて自分の報酬が決まるのでなく、リターンでインセンティブがちゃんとあるからそこまで考えたのか、インセンティブがないからニュートラルな立場でいられたのか、どちらでしょうか。
中垣 JAICってインセンティブ制度はかなり作り込んでくれていたんですけど、あくまで個人と、チームを持っている人はチームとしてのポートフォリオと、そこで上がったゲインに対してのインセンティブだけで、僕が管理していたファンドに関してはほとんどありませんでした。それよりも、だめなものはだめじゃない?というこだわりの方が強かったですね。
長南 ジャーナリズムではないですけれど、正義を貫いていますね。
中垣 そこまで美しいものじゃないですけど(笑)当時は社内全体で年間100社くらい投資していて、良い会社にもいっぱい投資していたんですけど、当然難しそうな会社も出てきますよね。もちろん担当者たちは絶対に良いと思っていて、それをないがしろにはできませんが、かわすものはかわさないと、っていうのは一応ありまして。
長南 その後DRAPERさんに移ったという感じですか。
中垣 DRAPERの1号ファンドは2011年に設立したのですが、当時はDFJ-JAICという名前でJAICの資本も入った会社でした。僕は2013年に退職しているのですが、ファンドが2013年に完全独立するまで、JAICの社員としてファンドを運用していた形ですね。
長南 報酬体系は変わりましたか。
中垣 全く変わりました。今は自分たちで報酬体系の設計をしていて、運営費として分け合う管理報酬とファンドが成功した際に返ってくるキャリード・インタレストをどう分配するかを決めています。完全にファンドの規模や収益と連動するので、非常にシンプルです。
長南 そうすると打率を求めるものもあるし、大ホームランを狙うものも出てくると思うのですが、そこも人の個性に合わせてポートフォリオを組んでいるのでしょうか。
中垣 ファンド全体として目指すIRRやマルチプル(投資倍率)は常に皆で考えながら、ある程度それに則っている先に投資する分においては、それぞれの考え方で進めていく感じですね。投資委員会は皆で決めていますけど。
長南 投資委員会は今何人いらっしゃいますか。
中垣 5人です。基本的には全員で議論を尽くしたものをやりましょう、となっています。
長南 他のVCだと、全員断っても1人が「これだけはやりたいんだ」って言ったら通せるファンドもあると聞きます。そういうものはありますか。
中垣 今はないです。そこまでやりたい理由が説明できるなら周りの意見も変わるんじゃないか、ということもありますし、そのために議論をしていける体制もあるので。
長南 投資先を見つけてから投資を実行するまでの期間は最短でどれくらいでしたか。
中垣 払込まで1ヶ月だったものはいくつかあると思います。
長南 すぐに投資を決断したということですよね。
中垣 そうですね。ただ、逆に時間がかかることも多い気がします。最近手がけ始めたシ−ドラウンドなら平均1ヶ月くらいでやっていけると思いますが、億単位の投資をする時はかなり議論するので。もっと人数が少なかった時は1個1個じっくりやろう、という想いが今よりも強くて、メインの担当者以外のメンバーも含めて、投資先との関係性を作ったり、その業界について理解を深めたり、意思決定を行うまでに時間をかけることが多かった気がします。