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INTERVIEWS WITH INVESTORS

(2015/11 取材)

投資家インタビュー Vol.9前編 Draper Nexus Ventures中垣徹二郎氏 投資家インタビュー Vol.9前編 Draper Nexus Ventures中垣徹二郎氏

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《 INTRODUCTION 》

ベンチャーキャピタリストとして20年間のご経験を積まれている中垣徹二郎氏。伝統的な国内大手のVCを経て、米国系のVCにて、日本だけでなく海外とのコネクションを駆使したベンチャー投資を行われている中で、中長期のベンチャー投資のトレンドから現在の日本を取り巻く起業や経済環境まで、俯瞰したお話をお伺いできればと思います。

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新卒からVCで投資家として活動

投資家インタビュー Vol.9 Draper Nexus Ventures中垣徹二郎 新卒からベンチャーキャピタルで投資家として活動

長南 まずは、中垣さんがベンチャーキャピタリストになられた経緯を教えていただければと思います。

中垣 早稲田大学を卒業してそのまま日本アジア投資(JAIC)に入ったので、僕はVCの世界しか知らないです。この業界で20年間投資だけをやってきたので、そういう意味ではすごく世間知らずなんですけど、それだけをやってここまできたという歩みですね。

長南 中垣さんと同世代の私たちの大学時代にはベンチャーキャピタリストという職業は、私が不勉強だったこともあるのですが、就職先としてはあまりメジャーでなかったと思うのですが、どのようにして知ったのでしょうか。

中垣 当時は新聞記者になろうと思っていたので、大手新聞社とNHKの4社くらいしか就職試験を受けなかったのですが、失敗してしまって。当時は青田買いというものがあり、5月の連休までに内定が出て、それがだめだったら7月にもう一回受けに行く、という流れでしたが、5月までに受かると思ってマスコミ以外は受けていなかったんです。

長南 なぜ新聞記者だったのですか。

中垣 後で自分でも分析してみたのですが、一番好奇心が駆り立てられたことと、ある意味青くさい正義感と、入社した後にする仕事がどのようなことかを分かっていたかったのがポイントです。自分が一生懸命何をやりたいかは当時分かっていなかったのですけど、記者はやってみたい、すごく面白そうだと思っていました。

長南 そう思われたきっかけは何ですか。

中垣 元々ルポルタージュを読むのが学生時代から好きで、その影響が大きいと思います。本多勝一さんとか立花隆さんとか。タイプは全然違いますが、何かを探求し、取材して本にまとめて、真実を追い求めていくのはすごくかっこいいな、と。ただ、銀行でも商社でも、それぞれ面白そうな仕事はあるんですけど、どこに配属されて何をすることになるか分からないんですよね。それがなんだか気持ち悪くて。そんな時に就職課に行ったら、JAICが二次募集をしていました。VCのことはたまたま本を読んだことがあって少し知っていたので、「これちょっといいかも、面白そうだな」と思って。

長南 そこでじゃあ行ってみよう、と。

中垣 自分が何をやってきた人間で、今までどのような就職活動をしてきていたかを、単純にそのまま面接で伝えました。新聞記者になろうと思ってこの会社とこの会社に行って、でも最終で落ちちゃったんです、みたいな。で、新聞記者の何が面白いと思うのかと聞かれて、会いたい人に誰でも会えることって言ったら、「うちは会えるだけじゃなくて、一緒にビジネスを作れるよ。しかも、一緒にリスクを取るから距離感が、その近さが全然違う」と。それでだんだん面白くなってきて。ただ、内定も貰ったんですけど、どうしようかなと思いまして。それで当時「これだ!と思う社長を見つけて、自分もその人を一生懸命サポートしたいと思って、それでやり続けられるかどうかがポイントだよ」という話をしてもらった時に、これは良いな、と。その後に新聞社の本試験の時期が来たんですけど、そのままJAICに入りました。本当に、ふとした縁でしたね。

長南 ヒトって縁で繋がっていくものですよね。大学の同期でVCに行った人はいましたか。

中垣 知り合いにはいませんでしたが、JAICに入ったら同じ大学の人がいました。同期は20人、男女同じくらいの人数で、女性は管理系やコンサルに就いていましたね。僕はまず札幌支店に配属されて、最初からキャピタリストの仕事をさせてもらっていました。

長南 東京でなく、いきなり札幌に配属されたことは予想外の出来事でしたか。

中垣 これがまたこの仕事をよく分かっていなかった証拠なんですけど、行きたい場所の希望を聞かれて、ずっと東京で実家暮らしだったという理由で「東京以外」って言ったんです(笑)当時も今と同じように東京一極集中でしたから。漠然と大阪か福岡かなと思っていたんですけど、札幌に行くことになって。結果として札幌はすごく面白かったです。タイミング的に良かったんですよね。当時のJAICのトップだった方が北海道出身で、この地域に力を入れていたんです。あとは、JAFCOの村口さん(村口和孝氏、現:日本テクノロジーベンチャーパートナーズ 代表)の活躍等もあって、札幌のベンチャーマーケットが盛り上がって場が温まっていたこともあり、経済規模にしては上場する会社が多かったんですよ。それに加えて競争過多でもない。経営者の方とじっくりとお付き合いして、どうやったら少しでも喜んでくれる情報を持っていけるかとか、ある時は営業を一緒にやってみようとか、数値をもらったら分析しようとか、そんなことを一生懸命やっていましたね。正直、投資候補先が多い地域とは言えませんでしたが、まだ仕事を何も知らない当時、じっくり仕事させていただいたことは貴重だったと思っています。

長南 でも、その頃の経営者の方々は、VCの存在というか役割についてあまり知らない時代ですよね。

中垣 「日本アジア投資なんてでっかい名前はロクな会社じゃないだろう」と怪しまれていましたからね(笑)

長南 確かに、投資育成会社だと政府っぽくって、銀行みたいに長いお付き合いをする機関で知られていましたからね。札幌には何年いらっしゃったんですか。

中垣 4年ほどです。1999年の末、まさに東京がインターネットバブルの頂点にあった時に東京に戻って来いと言われ、2000年の元旦に帰ってきました。ビットバレー花盛りでパーティーを覗きに行ったりして、完全におのぼりさん気分で「なんだこれは」みたいな感じでしたけど。

長南 札幌と東京で状況が全く違ったんですね(笑)

中垣 はい。バブルの加熱の仕方も違いましたし、札幌の時の仕事はファイナンス面でのコンサルティングに近かったですね。中小企業でもエクイティファイナンスを使って資金調達ができること、どうすれば上場市場を活用できるか、どれだけ何をするとどこにお金を使っていけるか、という話をするのが中心で、その中で資金を入れていく感じだったんです。あとは人間関係を作ることですね。ただ、マザーズの構想ができる少し前、1998年頃から、売上が10億円に満たないような小さな会社が、ほとんど利益が出ていなくても成長性があれば上場する時代になってきて、ロジックが劇的に変わってきました。

長南 Windowsをはじめとするインターネットの世界の扉が開いたという大きな流れもありましたよね。あの頃の北海道はインターネットよりもソフトウェア関連会社で優良企業が多かったイメージですが。

中垣 北海道大学の影響が大きかったんでしょうね。北大に青木先生(青木由直氏、北海道大学名誉教授、工学博士)という方がいらっしゃって、ほとんどがその門下生なんですよ。そこのB.U.Gという会社から色々な会社が派生し、サッポロバレーができて。実際には谷はなかったと思いますが(笑)でもやっぱり、ソフトウェアの会社はあったんだけど、インターネットの会社は非常に少なかったですね。そんな中、社内の東京のメンバーが手がける投資や業界を見ていると、すごいことが起こっている別世界に思えてきたんです。それで1999年くらいから「東京に行きたい」って言っていて、1年経って念願叶って東京に戻ってきた、という流れです。

投資家インタビュー Vol.9 DRAPER NEXUS VENTURES中垣徹二郎氏

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