(2015/10 取材)
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今ではIPOのプロ、事業計画の達人、そしてエンジェル投資家としての側面を持つ松本氏。株式会社ザッパラスを東証マザーズ、さらに東証1部上場まで導いた後、充電期間を経て、株式会社enishを更なるスピードで東証マザーズ上場から東証1部上場に導く。 最速とも呼ばれるスピードで1つのベンチャー企業のIPOを達成させる、目利きと腕はいかなるものなのか?一見優しい笑顔の中にひそむ冷静な視線は、どこを見ているのか?次のIPOを果たす会社は見つかっているのか?などについて、お聞かせいただければと思います。
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長南 松本さんの今の落ち着き方から相当のご経験をされてきたと思うのですが、バックボーンというか、これまでの経歴をお聞きできますでしょうか。
松本 まず、20歳で株式会社リョーマっていうところに学生で社員として入社しました。大学1年生の時です。今シンガポールにいる加藤順彦(エンジェル投資家)が真田哲弥(KLab株式会社 代表取締役)や西山裕之(GMOインターネット株式会社 取締役副社長)と始めたのがリョーマ。リョーマは元々、マイライセンスっていう運転免許合宿の代行業をやっていました。合宿免許学校やっているのって大体、地方の名士の方たちです。その枠を仕入れてきて、高校卒業間際の、受験が終わった学生にピンポイントでアプローチして事業を成長させていました。
長南 今だと生協とかがやっていますよね、それの前段階を。
松本 そうです。その時は全日教という法人が生協みたいなもので、運転免許合宿でシェア1位だった。で、マイライセンスは最後に確か3位までシェアを取りました。リョーマの初期はずっと運転免許合宿の仲介業でした。そこから代表の真田さんがヤングマーケットのマーケティングをやりたいっていう話になって、加藤さんが人材の招聘担当となり、最終的に連れて来られたのが私でした。
長南 そこでは松本さんはどのような仕事をされたのでしょうか。今、専門とされている管理とか経営企画周りでしょうか。
松本 いえ、完全に営業企画ですね。その時は作った企画を具現化してお金を儲けるっていうのがリョーマで一番やらなければならないことで、例えば、学生サークル向けの情報誌を作ったらそこにクライアント向けの広告を販売する、とか。それに朝から晩まで営業に行くっていうのが仕事でした。その時の部長が杉山全功さん(元 株式会社enish 代表取締役社長)と高橋信太郎さん(GMOアドパートナーズ株式会社 会長)。どちらのチームも営業リソースが足りず、私は両方に入って朝から晩というか、ほぼ24時間営業している状況でした。
長南 確か杉山さんも一度サラリーマンをやられていますよね。
松本 就職しましたね。卒業してからもそのままやり続けたのは4人だけで、あとは一旦、全員就職をしています。
長南 リョーマは今のベンチャー業界の上の方でご活躍されていて、皆さん成功されて牛耳っているようなイメージがするのですが、最大で何人になったのでしょうか。
松本 最大で多分15名ぐらいですね。
長南 最終的にマイライセンスはやめたのですよね。
松本 マイライセンスは最後に閉鎖しています。経営自体が上手くいかなくなって。リョーマ自体が倒産しました。
長南 そうなのですね。その時に借金も残ってしまったのですよね。
松本 もちろんそうですね。その時の代表が若干の個人債務を負って、それ以外は会社の債務。その手前で東京のダイヤルキューネットワークが事業閉鎖に追い込まれて、大阪のリョーマも連鎖して経営が困難になりました。たまたま同じ時期にそうなっただけで、原因は違いますけどね。私が24歳の時です。24歳で大学を卒業し、新卒4月に就職して、6月に関わっていた全ての会社が無くなりました。困りましたよね。その後は、とりあえず弁護士に「君はあまり関係ないけどフロントにいた人だからちょっと大人しくしていて」って言われて最初は実家でおとなしくしていたのですが、東京に住んでいる加藤に連絡して、「お前のところに住まわせてくれっ」て言ったら「良いよ」って。それで若干の着替えを持って東京に行きました。それが8月。そこからは東京にいました。
長南 その後はどうされたのですか。
松本 リョーマはある程度整理した上での倒産で閉鎖してしまったので、あとは債権者集会をやって終わりという状況でした。東京のダイヤルキューネットワークの方は運よく存続できました。徳間書店の徳間会長にご支援いただきました。その時に徳間会長に支援を依頼したのが杉山さんで、事業譲渡により存続しました。ダイヤルキューネットワークは事業を閉じましたが、負債が残りました。事業自体の借金や問題は全て徳間書店が引き取ってくれたのですが、リースの車が残っていたり、コピーも残っていたりで、引き継げないものがありました。それを真田さんと玉置さん(玉置真理氏、株式会社ザッパラス代表取締役社長)が連帯保証で負っていました。それを返すっていうプロジェクトを私も一緒に2年ぐらいやっていました。
長南 昔は事業立ち上げてそれを潰してしまうと、銀行などからの債務であればまだしも、高金利の債務がある場合には大変でしたよね。それを人の信頼を裏切らないように返し切るというのはすごいですよね。どのような方法で金を返したのですか。
松本 例えば損害保険の代理店販売とか、漬物を販売するとか・・・(笑)とりあえずお金になることは飛びついてやっていた感じですね。最終的には今で言うGMOインターネットの前身のインターキューという会社に支援を受けました。その代わり、チーム全員でインターキューのプロジェクトを立ち上げるとの話になりました。一方で、私の方はそんな状況なので給料が出ず、生活費で借金が増えていき、今度はそれを返すために自分の販売に行きました。「借金を返したいから誰か使ってください」って言ったら、ありがたいことにある会社の社長から「じゃあうちで」って話をもらって。そこから2年ぐらいで個人の借金も殆ど無くなりました。それでフラットになってきたので、もう一度事業をやろうという考えになりました。起業しようか、どんな事業をやろうかって考えた時に、人の欲求に訴えるエンターテイメント系コンテンツは良いけれど、やりすぎると世間から非難されたり、行政などからマーケットごとなくされるっていうリスクがある。そうではなくて、長く続くサービスをやりたいな、と。やっぱり継続する企業でないと社員も不幸になるし。ダイヤルキューネットワークでも技術者で大手出身の方も採用していました。ベンチャー乗り込んできて俺は人生賭けるぞって来てみたら、数ヶ月後に会社が無くなりますとなって、皆が悲惨な思いをしました。その人たちの再就職支援もやりました。24、5の時はちょっとありえない生活でしたね。で、その後も借金を負っていて、返し終わったのが28歳の時でした。
長南 今からでは想像できませんが、やっぱりその落ち着き払った松本さんの目はそういったご経験からなのですね。その当時は暗黒時代だったのでしょうね。
松本 その時はしんどい以外何もないですね。お金がなくて自炊とかよくしていました。ある食材はその頃に食べ過ぎて、もう食べられないです。当時は、どこにも朝日は昇らない、みたいな感じで。その時にこいつとは仕事を一緒にやりたいな、と思ったのが加藤さんでした。一番苦しい時に握手できる人の存在はやっぱり重要だな、というのを教えてもらいました。
長南 その苦しい経験は、今では美談というか、良い思い出になっていますか。
松本 会社はどのサイズでも撤退できるっていう自信にはなりましたよね。どんなことがあっても撤退できない会社はないっていう。
長南 その時の松本さんの立ち位置だと逃げ出しても良いような気がしますが、なぜ逃げなかったのですか。
松本 逃げたかったですよ(笑)でもなんかリョーマって、この苦難を乗り越えるとすごくストレッチした未来があるっていう風な、ある種洗脳じみた組織の雰囲気があって。苦しくて壁が高いことにチャレンジせずにどうする?みたいなのが会社の社風だったのですよ。だからその連中はいまだにこう、図太く生きているじゃないですか(苦笑)
長南 すごいですよね。あっけらかんというか、いつも明るく前向きで、そんなことをおくびにも出さないでいらっしゃいますよね。
松本 おかげさまでね。1日3食ご飯も食べることができるので!(笑)