(2016/1 取材)
長南 日広を設立して以降のお話をお聞かせいただけますか。
加藤 1992年に日広という広告代理店を始めて、16年間やっていました。元々は雑誌広告の会社だったんですけれど、ITバブルでネット広告もやるようになって、結局ベンチャー専門の代理店みたいになったんですよ。大手の会社は電通や博報堂が持っていくけれど、スタートアップは青写真どおりに売上が立つかを勘で量るしかないところがあって、リスクが高すぎて彼らも付き合えないんですよね。売掛をつくって良いか否かの判断は、結局広告会社側に必要になるんですよ。その最終判断をするのが僕の仕事でした。
長南 与信管理ですね。最終的にどのくらいの規模になりましたか。
加藤 一番大きかった時で140名、年商120億円まで行きました。ネット広告の世界で10年間戦って、競合はセプテーニ、オプト、サイバーエージェントだった時期が長いんですけれど、広告業界では40位くらいまででしたね。
長南 ポリシーというか、経営する上で大事にしていたことはありますか。
加藤 社長として判断しなくてはいけない時って、やっぱり売掛の問題が大きかったんですよ。この会社に毎月500万円お取引いただいていますが、来月は1,000万円に増やして良いですか、みたいな。中間管理職にも新人の営業マンにも、僕はとにかく「人を見る眼を養いなさい」ということを言っていました。
長南 付き合ったらだめだと思う会社はどのようなところですか。
加藤 例えば、玄関が汚れている、挨拶できない人がいる。典型的な言い訳でお金を払わない人はもう話にならないですよね。そういうところを自分で見て、相手の社長は信用に足るか足らないかを値踏みしていました。広告代理店はグロス・ネットのマージンビジネスで、メディアにお金を払わなくてはいけないので、原価が85%かかるんですよ。利幅が薄いと、どうしてもリスク管理が経営者の最大の仕事になるわけです。「この社長に売掛つくって大丈夫なのか?」と防衛本能が働くんですよ。
長南 起業家を見るのと同じような目線ですね。実際にお金が払えなくて逃げてしまった会社はありましたか。広告というと、最後の一手として起死回生を狙う人が多そうな業界ですが。
加藤 そう!ご承知のとおり、ベンチャーの10社中9社は3年間も持たないんですよ。ITバブルで我こそはネットベンチャーだという会社が渋谷、表参道、六本木界隈にドバーッと集まって、2000年の3月のバブル崩壊で死屍累々になっちゃいましたよね。伸るか反るかの最後の大勝負として、Yahoo!、MSN、Google、インフォシークにバンバン広告を打つんです。ただ、直接取引はできないので、日広などのネット系が間に入るんです。一番大事だったのは、会社が成長することよりも潰さないことでしたね。
長南 やはり腹が据わっている人は「自分がやらないと、誰もやってくれない」って踏ん張れますからね。
加藤 そうですね。ただ残念ながら、思い通りに物事は進まないですし、仮説を立てても上手く行かないですし、大体そんなものです。そこで「だめだから辞めよう」なのか、「だめだからこそ、自分の思いを成すためにどうすれば良いのか考えよう」なのか、違いが出ますよね。自分が起業したのはこういう問題を解決するためだって腹の底から言えることが覚悟の論拠になるので、毎日毎日、少しずつ軸足をずらしてチューニングしていくしかない。ピボットも繰り返しますし、経営って結局ファインチューニングなんですよね。
長南 今のエンジェル投資家としての活動にも繋がるかと思いますが、その覚悟の部分を量るのにどのくらい時間をかけますか。
加藤 1時間で済む場合もあれば、1日の場合もありますし、2年かかる場合もあるんですよね。投資の判断は人間を量る作業でもあるので、「僕はあなたの事業や事業計画ではなく、あなたそのものを見ているよ」ってもうはっきり言っています。
長南 次に転機となったのはいつでしたか。
加藤 2006年の1月16日、ライブドアショックですね。もし人生にも舞台と同じように暗転するタイミングがあるとしたら、まさしくそこです。日広はそれまで14年間ずっと無借金で増収増益を続けていたんですけれど、2006年に坂道を転げ落ちるように経営が傾いたんですよ。日広自体がどうというか、取引先の企業が皆ズッコケて、総膝カックン状態でした(笑)
長南 どこの会社も株価が下がりましたからね。
加藤 時価総額が1/10、酷いところは1/100にまでなってしまって。いわゆる信用収縮ですね。間接金融を待っていたところがギューッとその収縮を受けてしまって、ご承知の通り、多くの企業は販管費の中でも一番最初に広告宣伝費に手を入れるわけですよ。ライブドアショックを契機に、月商10億円あった売上が半年で半分になってしまいました。
長南 利益率15%だと資金繰りが回らないですよね。
加藤 致命的ですよね。2年くらいがんばったんですけれど、2008年の5月に手を離しました。日広はインターネットの成長の尻馬に乗って伸び続けて、はしご外しで皆と同じくドカーンとひっくり返って。あっという間の転落です。
長南 それまでは増収増益で利幅が薄い部分を支えていたけれど、歯車がズレて大変な状況になった、と。
加藤 僕にとってはリーマンショックよりもライブドアショックの方が、実被害も精神的なショックも遥かに大きかったです。
長南 もしライブドアショックがなければ、自分は今どうなっていたと思いますか。
加藤 多分今も普通に表参道で広告代理店をやっていると思いますよ。それくらい僕は広告の仕事が好きだったし、自分の天職だと思っていました。メンバーを集めて今年の目標を言ったり、一人ひとりの成長を心から喜んで表彰したり、誰かが広告賞を取ったら、本人よりも大騒ぎしてボロボロ泣いたり。そうやって組織を大きくして、日広という広告会社を通じて成果物で社会に貢献できることが本当に楽しかったんです。
長南 和気藹々とした雰囲気が好きだったんですね。
加藤 そうですね。絵を描くこと、グラフィック、ウェブサイトの構築、コピーライティング、マーケティング戦略。僕自身もそうでしたけれど、社員もそういうことが好きな人を採用していたので、皆広告マニアですよね。「将来は皆で社長や、梁山泊や!」って言う人は社内にいないわけです(笑)
長南 リョーマやダイヤルキューネットワークとは真逆ですね(笑)
加藤 日広という会社をサスティナブルな組織にするには、「全員が社長を目指す」みたいな旗を掲げることはやってはいけないと僕の中で気づきがあったんです。IPOや独立よりも、どうやって良い広告をつくるかというところにフォーカスしていたので、機能的な広告代理店でした。
長南 どのミッションも楽しそうですけれどね。日広を上場させようとは思っていなかったのでしょうか。
加藤 そういう業態でもないと思っていて、上場するつもりはありませんでした。自己資金だけで回していたんですよ。それでライブドア・ショックの後に日広を去って、2008年の6月にシンガポールに移住しました。