(2016/1 取材)
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SNSでは、シンガポールとマレーシアから日本に対する叱咤激励。異国の地だからこそ見える真実を発信されています。日本では一体どのようなご経験をされ、現在はどのように何を感じられているのかを、余すところなく聞かせていただきたいと思います。シンガポールで最後にお会いしてから8ヶ月経ちますが、どのくらいパワーアップしているのか楽しみです。
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長南 大学生の時にベンチャー企業でご活動し起業を経験され、現在はシンガポールにてエンジェル投資家としてご活躍中の加藤さん。どのようにして今に至るのか、加藤さんの生い立ちからお聞きしてもよろしいでしょうか。
加藤 1967年4月生まれ、48歳で、大阪の出身です。ちょっと変わっているのは、創業者の孫というところでしょうか。祖父は戦後間もなく鋼材の問屋を始めて、その5年後、朝鮮戦争の時に物資の供給で会社をドーンと大きくしました。大阪は鉄の町だったんですけれど、米軍の補給で武器や鉄器の需要がすごくあったんですよ。
長南 「○○商店」とか言いながらやっていた時代ですよね。
加藤 まさにそうです。当時は「特約店」と呼んでいました。父は長男だったので、言わずもがな、会社を継いだんですね。物心がついた時には既に親が社長で、僕は創業者の孫で、長男の長男で。祖父が亡くなった時に、自分のアイデンティティを知りました。「ぼんちが継ぐんやで」とか「立派なおじいちゃんの跡を継いで」とか、参列者から頭を撫でられて、自分は家業を継ぐ運命にあると分かるわけですよ。その時小学校5年生だったんですけれど、経営って何だ、商売って何だ、ということが自分なりのカルマとして急に乗っかってきました。
長南 小学生にして自分の将来を悟った、と。
加藤 当時は松下幸之助さんや佐治敬三さんもご健在でしたし、上場企業の1/3が関西に集まっていました。大阪は商人の町ということもあって、祖父がとにかく商売、商売、商売の人だったんです。父はそこまで商人らしい感じでもないんですけれど、それでも大学は関西に行けと言われてしまって。
長南 本当は東京の大学に行きたかったのですか。
加藤 なんとなく東京に出たかった程度なんですけれど、「それだけはあかん!大阪で商売やるのに東京の大学出ても意味ない!関西の大学に行け!」って有無を言わせぬ圧力がかかって、「はい!分かりました!」みたいな(笑)あまり親にああせい、こうせいって言われたこともなかったので、一つくらい親の言うことを聞いてみようかな、と。運良く現役で関西学院に受かり、小学校5年生のカルマから商売の勉強をしようと商学部に入りました。
長南 加藤さんは、以前にインタビューさせていただいた杉山さん(杉山全功氏、元 株式会社enish 代表取締役社長)や松本さん(松本浩介氏、元 株式会社enish 取締役CFO)と同じ学生ベンチャー企業リョーマの出身ですよね。リョーマにはどのタイミングで入ったのでしょうか。
加藤 元々は、代表だった真田さん(真田哲弥氏、KLab株式会社 代表取締役)と出会ったことがきっかけです。1986年の6月、僕は1年生で、真田さんが3年生でした。新歓ウェルカムダンスパーティの実行委員になりましょう、というポスターが学内に貼ってあったんですよ。学校のオフィシャル行事だと思って申し込んだら、なんのことはない、真田さん個人の金儲けで(笑)僕も上手く乗せられてチケットを売ったり、学校の掲示板に勝手にポスターを貼ったりして、結局パーティの2日前になってやっと知ったんですけれど、騙されたというより逆に「この人、自力で金儲けやっていてすごいな」と憧れちゃったんですよね。
長南 パーティー自体は成功したんですか(笑)
加藤 はい。で、その頃、学生ながらに企業の経営に参画している人たちが新聞やテレビによく出ていて、「これからは学生起業の時代だ。俺は中学・高校の同級生と運転免許の合宿をやるから、お前も手伝え」と真田さんが言うわけですよ。社長が真田さんで、専務が西山さん(西山裕之氏、GMOインターネット株式会社 取締役副社長)で、僕も手伝うことになりました。その三人で新大阪の駅前に狭いマンションを借りて、新聞や雑誌に広告を打って運転免許の合宿の斡旋を取るのが最初の事業でしたね。
長南 自動車免許合宿のマイライセンスでしたよね。最初から順調だったのでしょうか。
加藤 100万円でスタートしたんですけれど、高校の時の友達に渋々予約を取りに行っても屁の突っ張りで、あまり宣伝費もなくて。真田さんの秘策で、僕、大学の入学試験の合格発表にパンフレットを持って行かされました。当時は皆大学まで行って掲示板で合否を確認していたので、ニコニコしながら校門から出てくる人に「合格おめでとうございます!」って合宿のパンフレットを渡すわけです。
長南 ちゃんとそこで目利きしている、と。
加藤 関西大学、龍谷大学、関西学院大学、千里金蘭女子大学・・・なんだかんだで全部の大学に行きました。それだけで160人集まったんですよ。単価が25万円なので、売上4,000万円以上。銀行で通帳記入のところに通帳を入れたら、ガーッ、ガーッ、ガーッて1分くらい出てこないんです。ようやく出てきたと思ったら、25万円がダーッと振り込まれていて。
長南 とても痛快な洗礼を受けて学生起業の世界に入られたんですね。
加藤 申し込みは2〜3月に集中するんですけれど、自動車学校は大体、月末締めの翌月末払なんです。当時は頭の中が単式簿記だったのか、浮かれて使ってしまうところもあって、利益がなくなるどころか、原価も払えない。そんな感じだから銀行でお金を借りようとしても相手にしてもらえず、「お金って簡単に借りられないね」「じゃあまず会社をつくろう」みたいになって。会社をつくったらお金が借りられるんじゃないかと思ったのか。
長南 すごい(笑)それまでマイライセンスは個人事業で、法人格はなかったのですね。
加藤 そうですね。「合宿免許斡旋所マイライセンス」でした(笑)資本金100万円で翌年の1987年6月1日に株式会社リョーマという会社をつくりました。